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続き

2013年03月19日
自分の中で勝手にリンクしてしまったので
話を続けてしまって…sorry!



この本の中に出てくるのです。

「きょう、お父さんが休みなので、きょう、高島へ遊びに行きました」

と、いう文章。

貧しくて忙しい父親。
父親に遊んでもらたがっている子供。
そういう生活。
しかし、この文章から、それだけの生活しか読み取れないとすれば
それは教師の貧しさであります。

この文章には「きょう」が2つある。あとの方は削った方がいい。
一応はだれでも考えるでしょう。
しかし、そんな風に機械的に削ることがはたして尊重になるだろうか
原稿用紙と取り組んで、鉛筆をしっかり握って、一字一字しっかりと書き上げた子供の努力。

その中に一字一句も無駄があるはずがないのです。
「きょう」を一つ削ることの罪深さを教師は自ら考えなくてはならない。
形の整った文章を教える前に教師が削り取ろうとしてる「きょう」という言葉の中に
どれだけの生活があるのか、それを考えなくてはいけない。
最初の「きょう」というのは、特別な「きょう」である。
滅多にないことに父が休みであるところの「きょう」久しぶりに父の愛情をじかに
受け止めることのできた「きょう」である。

そして、そのあとの方の「きょう」は、前々から遊びに行きたくて、父にせがんでいた、
それがようやく実現したところの「きょう」である。
前の「きょう」とうしろの「きょう」は、そこに込められている子どもの感情が違っている。
文字は同じでも、意味が違う。教師はそこまで深く読み取らなくてはならない。
無駄なように見える「きょう」という言葉の中に、無意識ではあるが大きな意味をもった
子どもの生活がある。その無意識にかかれた部分を教師自身がはっきりと意識で受け止めて
やることによって、児童にも改めて意識させてやること、それがすなわち生活尊重ということであろう。」


大人になるとややもすれば文章力という言葉で片付けられてしまうのだが
ふと考えると
文章って…結構感情的だ。


昨夜の私の文章
「ブログ更新も日課にするにはちとやっぱり厳しい。」

これはとても無意識の文章だ。
であるが故にいろんな思いがこめられてしまっている。。。

ちと

やっぱり

意味を感じているのだろう


まぁ
あえて論ずるほどのことでもない。

そうやって人の発した言葉の一つ一つ、それに付随した行動や、言動。
おしなべて関連しているような。

なかなか簡単に人の心の奥底が読めるものでもない
読めるものでもないから
病んでしまう人がいるのだけれど

読めたからいいわけでもないし、
読めないから悪いわけでもない

ただ
何かしら出ているサインを見逃すな!

っていうことが

発せられていること

自身でも発しているということ





なんだか支離滅裂か??


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